「分かりました。では」
仕事を終え、報告の電話をすると、「近くにいるから落ち合おう」と所長に言われた。
所長とは同じ事務所で暮らしているということもあり、共に食事をする事が多い。
けれど、一緒にいるタイミングでお腹を空かせたわけでもないのに、わざわざ待ち合わせをして食事をしようと言われると、なんとなく胸の奥がくすぐったくなる。
きっと所長はそんな感情を抱いていないだろう。だから、この感情がなんと呼ぶべきものなのかは自分で見つけなければ……と常々思っている。
そんな風に物思いに耽っていると、ぽんと肩を叩かれた。
「しょ――」
随分と早く所長が来たんだと思って振り返った私は驚いた。
そこにいたのは所長ではなかった。年齢は東海林さんくらいだろうか。人懐っこい笑みを浮かべて、私にスマホの画面を見せてくる。
「すみません、この場所ってどこか分かりますか?」
「そこだったらこの通りをまっすぐ行って、つきあたりを右に曲がると看板が見えてきますよ」
「不躾なお願いで申し訳ないんだけど、さっきから同じところをぐるぐると迷ってて……良かったら店の近くまで送ってもらえるかな?」
東海林さんの年くらいだろうと思った相手は、まさかの方向音痴。そんなところまで似てしまうのか、などと密かに驚きながらも頷き返そうとした時だった。
ほんのわずかな違和感を覚えた。
「すみません、それは出来ません」
頷こうとした首を横に振り、一歩下がろうとした瞬間――後ろから伸びてきた手に引き寄せられる。背後から温かいものに包み込まれる。
同じ洗剤。同じボディーソープ。シャンプーは違うものを使えと言われたので違うものだけど、私たちを構成する香りはほとんど一緒だというのに、どうしてだろう。
所長の匂いに安心感を覚える。
「悪いけど、他当たってくんね?」
所長は両手を上着のポケットに突っ込んだまま、私を上着の中に仕舞い込むように包んだ。
私に道を尋ねた男性は、引きつった笑みを浮かべたまま数歩下がり、それから脱兎のごとく駆けだした。
「……すみません、所長」
「んー?」
「どうやら私は慢心していたようです」
「慢心?」
「はい。今の方に違和感のようなものを感じていたのに、所長に助けられるまで気づきませんでした」
きっと彼は道になんか迷っていなかった。
『同じところをぐるぐると迷っていて』と彼は言ったが、私は十分以上はこの場所に留まっていたけれど彼が姿を見せたのは声をかけた時だけ。
つまり道に迷っているというのは嘘。そして、最初は丁寧に話していたのに、気づけば口調がくだけていた。そこから導き出せる答えは一つだ。
「彼は私に危害を加えようとしていたのではないかと」
「…………受け取り方次第ではそうかもしれないな」
「ありがとうございます、所長。……それで、あの」
「んー?」
「もう大丈夫だと思うので、離していただけると……」
所長は私をすっぽりと包み込んだままの状態だ。
胸の鼓動がいつもより早く、うるさいくらいに高鳴っている。
所長の体温を感じているせいか、頬が熱い。
多分今の私は変な顔をしている。
「もうすっかり秋だなー」
所長は軽く笑って、そんなことを言う。
どうやら私を上着から解放する気はないようだ。
(仕方ない。もう少しこのままで……)
騒がしい胸の鼓動も、火照った頬も、所長に由来する感情だろうけれど。
それをどう呼ぶべきなのか。いや、どう呼びたいのか。まだ明確な答えは出ない。
でも――
(この人の傍にいたい。それだけは確かだ)