これは私と先生――いや、幸影さんが結婚して少し経ったばかりの頃。一人と一人が二人になったばかりのささやかだけど、私にとっては大切な思い出が詰まった日々のお話です。
任務を終え、屋敷に帰った頃にはすっかり陽が暮れていた。襖を開け、誰もいない部屋に向かって「ただいま帰りました」と口にする。もちろん返事はないけど、誰かに対して言っているというよりは屋敷に対して言っているようなものだ。
「幸影さんは…まだだよね」
幸影さんと私では、任務の規模が違う。そもそも彼は組頭で私は真田勇士隊に所属するとは言えまだまだ未熟な忍者だ。
一緒に暮らすようになって、どれだけ幸影さんの任務が忙しいのか分かるようになった。組頭・教師・理事長と三足のわらじを履いていたころは寝る時間さえなかったのではないかと過去を振り返って心配になるくらいだ。
そんな忙しい時、先生は私につきっきりで指導してくれたり、よく目にかけてくださった。そのおかげで今こうして夢に見ていた勇士隊に入ることが出来た。私が感謝の気持ちを口にするたびに『君が頑張ったからだよ』と先生は笑ってくれるが、私一人の努力でここまで来れたわけじゃない事もよく分かっている。
そんな尊敬する恩師の帰りをそわそわと待ちながら、私は夕食の支度を始めた。今日の夕食は昨日買っておいた旬のたけのこを使ったたけのこご飯と煮物、冷奴、すまし汁だ。たけのこのアクは昨夜のうちに下処理を済ませておいたので、すぐ仕込みに入れる。
幸影さんはおかずは少し濃い目の味付けが好みで、その分汁物は上品な味付けが好きなようだ。
修練院にいた頃は食事は用意されていたので料理をする機会がほとんどなかった。それに……修練院に入る前は毎日一人でご飯を作って食べていた。自分ひとりの食事は思い返せば味気ないものだったけど、今は大好きな人のために料理することがとても楽しい。幸影さんが美味しいと言ってくれるだけで胸の奥に暖かなものが宿る。
寝食を共にするようになってから、作った料理は毎日日記のようにつけている。以前作った煮物の味付けを確認すべく本を開くと、ふと影が落ちた。私が振り返る前に背後から腕が回ってぎゅっと抱き締められた。
「幸影さん…! おかえりなさい」
「うん、ただいま。かえでちゃん」
顔を上げると、幸影さんがにこにこと笑っていた。
「今日はいつもよりお帰り早かったんですね」
「ここ最近帰りが遅かったから、少し早めに帰れるように工夫したんだ」
「工夫…?」
「ああ、君は知らなくていいんだよ。それより美味しそうな香りがするね」
「まだ支度に少しかかるので、待っていていただけますか?」
「うん、分かった。まずは着替えてくるね」
「はい」
そう言いながらも幸影さんは私を抱き締める腕を緩めず、むしろさっきよりきつく抱き締めて来る。
「…幸影さん?」
「ああ、ごめん。かえでちゃんを補充してたんだ」
ようやく幸影さんの腕が私から離れた。
「それじゃ、今度こそ着替えてくるね」
「はい、いってらっしゃい」
台所から出て行く幸影さんの背中を見送ると、私は料理を再開した。幸影さんに抱き締められる度、高鳴る胸の鼓動に未だになれず、多分今の私は顔が真っ赤だ。
幸影さんの腕の中はドキドキもするけれど、どこかほっとする不思議な場所だ。きっと封印されてなかったら抱き締められる度に幻術が発動しちゃうだろう。
(そんな事になったら幸影さんに迷惑もかかるし、私の心臓も持たないだろうから幻術が封印されてよかった…)
釜が吹き零れたのを確認してから、私は火を弱めた。
夕食を終え、温かいお茶を煎れて一息つく。
「ご馳走様、今日の夕食も美味しかったよ」
「ありがとうございます」
「かえでちゃんと結婚してから、夕食を楽しみに帰ってきちゃうよ」
「本当ですか? 凄く嬉しいです!」
思いがけない幸影さんの言葉に私は笑みを零す。
「君だって任務を終えて帰ってきてから支度するから疲れるだろう?」
「幸影さんのために料理を作るの、楽しいんです」
「楽しい?」
「はい!」
幸影さんは目を細めて私を見ていた。
「料理を作りながら、幸影さんが帰ってくるのを待つのも楽しいですし、『ただいま』って言ってくれるのも嬉しいんです」
「かえでちゃん…」
私は知っている。『ただいま』と言ってくれる人のいない淋しさを。
ふと、私の手に幸影さんの手が重なった。驚いて顔を上げると、思いのほか近い距離に幸影さんの顔があって少し驚いてしまう。
「俺も君が『おかえり』と笑顔で迎えてくれる事が凄く幸せだよ」
「幸影さん…」
「君の事が大好きだよ、かえでちゃん」
「私も大好きです」
お互いの気持ちを確かめるようにそっと唇が触れ合った。
それから数日後のある日。
「片桐! そういえば今日真田を見かけないんだけど知ってる?」
「幸影さん? 朝一緒に出てきたっきり会ってないけど、普通に任務じゃないかな」
猿飛君は困り顔で腕を組んだ。
「どうかしたの?」
「探してるんだけど見つからなくてさ。嫁である片桐も知らないんならお手上げだな」
「えっ、そんな事ないと思うけど」
「まあ、明日でいっか。そろそろ見回り行こうぜ!」
「うん、分かった」
幸影さんのことは少し気がかりだけど、私は改めて自分の出来る事に集中することにした。
その後、見回り中に盗みを働いた男性を捕まえたり、お母さんとはぐれた子どもを連れて、お母さんを探し回ったりといつもより目まぐるしかった。屋敷に帰ると周囲はどっぷりと夜の闇に包まれていた。
(帰り遅くなっちゃった…! 幸影さんが帰ってくるまでに夕食の支度しないと!)
私の料理を楽しみに帰ってくるであろう彼のことを考えると不思議と疲れは吹き飛んでいく。
「ただいま帰りました!」
「おかえり、かえでちゃん」
「えっ!?」
部屋に入ると幸影さんがにこにこと出迎えてくれた。
「どうして? え?」
「今日もお疲れ様、かえでちゃん。お風呂にする? ご飯にする? それとも俺?」
幸影さんは私の腰に手を回すとぐっと引寄せた。
「ゆ、幸影さん…!」
突然の事に羞恥で顔が真っ赤になる。幸影さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべると、
「なんてね」
と笑って、私を解放してくれた。
「夕食の支度は出来てるから、早く着替えておいで」
「はい!」
私は急いで自室に戻って、服を着替えた。どうして忙しい幸影さんが私より先に帰って夕食の支度を? と不思議に思うが、それよりも幸影さんが出迎えてくれたことが嬉しくて仕方ない。
「幸影さん、お待たせしました!」
「それじゃあ、食べようか」
食卓にはご飯と焼き魚、おいもの煮っ転がし、葉物の胡麻和えとお味噌汁が並んでいた。
「いただきます!」
まずはお味噌汁を一口。だしをしっかりとっているので薄味だけど、とても美味しい。
「美味しいです! 幸影さん、お料理上手なんですね!」
初めて食べる彼の手料理はどれもこれも美味しかった。
「俺は自分で作るものより、かえでちゃんが作るものの方が美味しく感じるよ。愛情っていう調味料がきいてるのかな」
「幸影さん…!」
こんなに美味しい料理を作れるのに、私の料理の方が好きだと言ってくれる事が嬉しくて、胸が熱くなった。
「そういえば今日、猿飛くんが幸影さんの事探しても見つからないって言ってて」
「ああ、そうだろうね。午前中は働いてたけど、早めに切り上げて帰ってきてたから」
「え? そうなんですか!」
「うん。たまには愛おしいお嫁さんを出迎えてみたくて」
「…っ!」
「だってまだ新婚だからね?」
「そ、そうですね」
優しく微笑む幸影さん。
きっと今日時間を作る為にどれだけ頑張ってくれたんだろう。私を出迎えたいという為だけに任務も頑張って、美味しい料理も作ってくれて、『おかえり』と出迎えてくれて。
「私は幸せ者ですね」
自然と言葉が零れた。
「大好きな人に一日の始まりにおはようって言えて、ただいまって言ってもらえて、一日の最後におやすみって言えて……それだけじゃなくて、今日みたいにおかえりって言ってもらえて、美味しいご飯まで頂いちゃうんですよ」
「普段君が俺にしてくれている事だよ。俺がどれだけ嬉しいか伝わったかな?」
「はいっ!」
気付けばお茶碗は空っぽになっていた。
「あの、おかわりしてもいいですか?」
「君は本当に可愛いな」
おずおずと尋ねると愉快そうに幸影さんは笑った。その後、私はおかわりをして、満足するまで夕食を平らげた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます!」
お茶は私が用意すると言ったのだけど、「今日は俺にやらせてほしいな」と幸影さんが言ってくれたのでお言葉に甘える事にした。一息ついていると、幸影さんがそっと体を寄せてきた。
「ねえ、かえでちゃん。ご飯が終わったことだし、お風呂と俺、どっちにする?」
「え?」
「君が帰ってきた時に聞いたよね? まあ、返事も聞かずご飯にしちゃったけど。それで次はお風呂と俺、どっちがいい?」
「お風呂と幸影さん…?」
「それとも一緒に入っちゃおうか」
「え? え?」
ぐいと近づく顔に私は慌てふためいてしまう。そこでいつもの冗談だ! と気付いて、私は平静を取り戻した。
「分かりました! 幸影さん、いつもの『なんてね』って言うつもりですね!」
幸影さんに翻弄され続けた身としては、もう冗談だって分かるようになった! と得意げな顔をすると、そっと額に口付けられた。
「なんてね、なんて言わないよ。冗談じゃないから」
「えっ…!」
次の瞬間、私の体は幸影さんの手によって抱き上げられていた。
「たまには一緒に入るのも良いと思うんだ。ね? かえでちゃん」
有無を言わせない笑みに私はそのまま大人しく脱衣所まで運ばれてしまうのだった。
そんな日々が続いたある日、強烈な吐き気に襲われて、身ごもった事を知った。あっという間に時は流れ、私たちは二人から四人になった。
「幸影さん、おかえりなさい」
子どもたちが眠った頃、帰ってきた幸影さんを出迎えるとあの頃と変わらない笑顔で「ただいま」と言ってくれる。
変わらないものもある。
だけど、私の中で幸影さんへの愛情は降り積もる雪のように日々増していく。そして、子ども達への愛情も。
「そうだ、かえでちゃん。今日は久しぶりにお風呂、一緒に入ろうか」
「えっ…!?」
「たまには新婚気分に戻って、ね?」
「えっと……はい」
何年傍にいても、幸影さんにドキドキしてしまうけど。
そんな日々がいつまでも続けばいいなとあの頃つけていた日記を読み返して、こっそり微笑むのだ。