おはようのキスをして(神玲)

神楽さんに頼まれた書類を持ってアトリエを訪問すると、神楽さんはいつも以上に忙しそうに仕事をしていた。
「神楽さん、お疲れ様です。お忙しいところすいません。こちら、頼まれていた資料をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
神楽さんはちらりと私の方を向いた途端、呆れたような表情に変わった。
「ええと?」
「なにそのひっどい顔。ちょっとそこ座って待ってて」
「え、でも神楽さんお忙しいんじゃ……?」
「資料も確認しなきゃいけないし、ちょうど休憩しようと思ってたところだから。大人しくそこに座ってて」
「は、はいっ!」
言われるがまま、ソファに腰を下ろす。
それから十分ほど経って、神楽さんは私の隣に腰を下ろした。
「え、神楽さん?」
「なに、隣に座っちゃ悪いわけ」
「いえ、滅相もございません!」
いつも仕事の話をするとき、神楽さんは正面に座ることが多い。それは公私混同しないためもあるのだろうと思っていたので、仕事の真っただ中なのに私の隣に座った事に軽く動揺した。
「ここの来る前、ちゃんと鏡見た?」
「え、もちろんです」
誰かを訪問する際は必ず自分の身だしなみを確認するようにしている。特に神楽さんの時はより一層注意深くなる。
(だって恋人だし……)
一瞬桃色に染まりそうになった思考を慌てて、頭の隅に追いやると、神楽さんの手が私の目の下を撫でた。
「クマ、隠せてない。あと、髪も跳ねてる」
「か、神楽さん……! 近くないでしょうか!?」
「近づいてるんだから当然でしょう」
「ひぇ……」
自分の至らない部分を指摘されて恥ずかしいはずなのに、神楽さんがすぐ近くにいるだけで胸の鼓動が激しく高鳴る。ドキドキと神楽さんを見つめていると、神楽さんは私の髪を一撫でしてから、離れてしまう。
「人のこと忙しいって言うけど、泉だって忙しかったんでしょう?」
「そう、ですね。四月は毎年慌ただしく過ぎるので……」
寒い冬が終わり、温かな春を迎えると悲しいことに犯罪件数はぐんと増える。薬物犯罪もそのうちの一つだ。
ここ数週間は慌ただしく仕事に追われ、仕事の用事以外で神楽さんに会うこともほとんど出来ていなかった。
「僕のことばかり心配しないで、自分の心配もしてよね」
「……ありがとうございます」
心からの言葉だった。神楽さんの優しさに触れ、胸にじんわりと温かくなる。
それから少しだけ雑談を交わし、持ってきた資料に神楽さんが目を通す。
「うん、問題なさそう。ありがとう」
「いえ、ご確認ありがとうございました。それでは、私はそろそろ失礼しますね」
時計を見ると、神楽さんの元へやってきてから一時間は経っていた。一礼し、立ち上がろうとすると、神楽さんが私の腕を引いた。
「ちょっと待って」
「え?」
「……明後日は、休めるんでしょう?」
神楽さんの頬がほんのりと赤い。その熱が伝染したみたいに私の顔も熱くなる。
明後日の土曜日は久しぶりに休日が重なったので、明日の夜、神楽さんが私の家に泊まりに来る約束をしているのだ。
「もちろん、大丈夫です」
今日明日で溜まった書類を倒してしまえば、よほどのことがない限り、休日出勤になることはないだろう。
神楽さんの目を見つめながら頷くと、神楽さんは少しほっとしたように表情を緩め、私の腕から手を離した。
「それじゃあ、明日仕事終わったら連絡する」
「はい。私も連絡しますね」
そして今度こそソファから立ち上がって、神楽さんのアトリエを後にした。
(明日、楽しみだなぁ)
今日も仕事とはいえ顔を見ることが出来て、明日と明後日は恋人としての時間を過ごすことが出来る。
私の日常に、神楽さんがいる。
それがたまらなく嬉しい。
恋焦がれた相手が、自分を好きになってくれる確率ってどれくらいなのか分からないけど、きっととてつもなく低い確率――奇跡と呼んでもいいかもしれない。
(よし、仕事頑張ろう!)
神楽さんを充電した私は、気合十分にマトリへ戻るのだった。

翌日。
「玲ちゃん、般若みたいな顔してるよ」と隣の席の夏目くんに言われながらも、なんとか仕事を終わらせた。
創作イタリアンのお店で夕食を食べた後、我が家までやってきた。
「神楽さん、上着かけておきます」
「ああ、ありがとう」
ジャケットを受け取り、すっかり神楽さん専用になったちょっといいハンガーにかける。
「あ、お茶いれてきますね。まだ夜は少し寒いですし、温かいお茶で大丈夫ですか?」
「泉」
「あ、冷たい方がいいですか? まだ麦茶は常備してないんですけど」
「麦茶なんて飲まないから。そうじゃなくて」
リビングとキッチンの間をうろうろする私を神楽さんが捕まえた。
突然抱きしめられて、驚きのあまり口から心臓が飛び出るかと思った。
「ひぇ……」
「なにその反応」
「だって急に抱きしめるから」
「これでも待ったつもりだけど」
「そんな――」
言葉は、キスで遮られた。
「……んっ」
閉じた唇を押し付け合うだけ。
それだけなのに、神楽さんとキスをしていると思うだけで身体が熱くなる。
「泉……」
「ぁ」
神楽さんの手が後頭部を優しく撫でる。固く閉じていた口をおずおずと開くと、神楽さんの舌が差し込まれる。深くなっていくキスに気づけば夢中になり、神楽さんの背中に腕を回し、彼のシャツをぎゅっと掴んでいた。
「――……はぁ」
どれくらいキスをしていたんだろうか。
離れていく唇が寂しくて、思わず見つめてしまう。
「シャワー、浴びてきたら」
「そうさせていただきます」
このままベッドになだれこむ展開にならなくて、少しだけ残念だけど、ほっとしている自分もいる。
「急にキスした僕も悪いけど、急がせたいわけじゃないから」
「分かってます。その……神楽さんからキスしてくれて嬉しかったです」
昨日、神楽さんの顔を見れて嬉しかったのは本当だ。
でも、それはあくまで仕事としての時間だ。抱き合ったり、キス出来たりするわけではない。
顔を見れるだけで十分幸せだと思っていたのに、欲深い私はキスしたかったなとか、それ以上のことがしたいなんて思ってしまった。
だから今夜、恋人としての時間に期待していたのは神楽さんだけではない。
「そんな顔してないで、さっさと……いや、ゆっくりシャワー浴びてきて」
「え、どんな顔ですか?」
思わず訊ねると、神楽さんは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべて、こう言った。
「僕以外には見せて欲しくない顔」
「――ッ!? シャ、シャワー浴びてきます! あ、ええとお茶! 温かいお茶を!」
「それくらい自分で出来るから」
追い払うように手をひらひらさせる神楽さんを残して、私は脱衣所に駆け込むのだった。


微睡む意識の中、ふわりと珈琲の香りが鼻腔をくすぐった。
隣にいるはずの人の姿はないが、まだ彼が寝ていたであろう場所は温かいので、時間はそんなに経っていないようだ。
ベッドから抜け出し、キッチンの方へ目をやると神楽さんがそこに立っていた。
お泊まり用に置いてあるパジャマを身に着け、珈琲を淹れる姿に目を奪われた。
「あれ、起きたの?」
「はい、珈琲のいい匂いに釣られました」
「ごめん、僕が起こしちゃったみたいだね」
「でも、おかげでいいものが見れました」
「は?」
いつも私が立つキッチンに神楽さんがいる。
しかも、珈琲を淹れている。
その姿があまりに馴染んでいて、愛おしさが込み上げてきた。
「神楽さんの後ろ姿って見惚れちゃいますね」
「朝から何言ってんの」
「いや、こう……思わず抱きつきたくなるというか」
「今珈琲淹れてるんだからやめて」
「それはつまり、珈琲を淹れ終わったら抱きついてもいいということですか?」
「……ちゃんと宣言してからなら」
「! ありがとうございます!」
「泉も珈琲飲む?」
「ああ……珈琲は飲みたいんですけど、早く抱きつきたい気持ちもありまして……!」
「なにそれ」
ぷっと神楽さんが噴き出す。
それから私の方に身体ごと向いて、両手を広げた。
「今、背中に抱きつくのは駄目だけど、こっちならいいよ」
「では、お言葉に甘えて!」
勢いよく神楽さんの胸に飛び込んだ。ぎゅうっと抱きしめてくれる腕はまるで幸福みたいだ。
「あ、神楽さん」
「なに」
「おはようございます」
「ん、おはよう」
朝の優しい空気に、その言葉が溶けていくようだ。
神楽さんと付き合うようになって、幸せだと思うことが増えた。ありふれた挨拶さえも、まるで宝物みたいだ。
「神楽さん、今日も大好きです」
思わず零れた言葉に、神楽さんは頬を赤く染めた後「おはようのキス」をしてくれた。


むき出しの肩に布団をかけ、薄明りの中で泉の寝顔を見つめる。久しぶりの恋人の時間を堪能した後、泉は電池が切れたみたいに眠ってしまった。
(だらしない顔して寝てる……)
何の夢を見てるんだろうか。大好きな焼酎をたらふく飲む夢だろうか。それとも美味しい料理を食べているのか。『もふもふは癒しなんです!』と豪語していたことも思い出したので、もしかしたら猫やウサギに囲まれている夢かもしれない。
「ふふ……かぐらさん……」
不意に名前を呼ばれ、ドキリと心臓が跳ねた。目を覚ましたのだろうかと注意深く様子を伺うが、目を開ける気配はない。
(なんだ、寝言か……寝言で僕の名前呼ぶなんて。どんな変な夢に巻き込まれてるんだろう、夢の僕)
ほっとしたような悔しいような。なんとも言えない感情が胸に湧く。けれど、決してそれは嫌な感情ではなかった。
(久しぶりに会ったら歯止め利かなかったな……泉疲れただろうに)
本人に言えば、「体力には自信があります!」と返されるのが目の見えているので、言葉にはしない。
泉の目元をそっと撫でる。昨日、隠しきれていなかった隈はまだそこにあるけれど、泉の寝顔からは疲れは感じられない。そこにあるのは、幸福そのものだ。
(僕も同じ顔してたらどうしよう)
今の自分がどんな顔をしているのか、想像するだけで笑ってしまいそうだ。きっと馬鹿みたいに彼女を好きだという顔をしているんだろうな。
「おやすみ、泉」
明日はもう少しだけ優しくするから。
眠る彼女に誓うように、そっとキスをした。

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